思考の消化器官

色々な感想文とか。生活のこととか。

惰性のチカラ

「ジョギングよく続くね」と人から言われる。


「いや、惰性ですよ」と応える。


これは謙遜でも何でもなく、単なる事実だ。ほぼ毎日、惰性で走っている。色々な所で何回も書いているが、未だに走るのは大嫌いだし、走ること自体がキモチイイなどと感じたことはない。キモチイイのは朝の空気だったり、移り変わる季節だったりと、走ること以外の部分である。


それでもほぼ毎日走っているのは、一回初めてしまったから。朝起きた初速の勢いを利用して、ジョギングに行く。一歩、外に足を踏み出せば何もせずに家に帰ってくる方が精神的な労力が大きい。結果として惰性でいつも通りにジョギングして帰ってくる。


一回初めてしまったものを止めるのには、それはそれで精神的に労力が必要だ。ほぼ毎日走っていたのを止めたら、きっと誰かに「どうしたの?」と聞かれる。理由なんて何とでも言えるけれど「大して続かなかったな」と思われるのは癪なのだ。


自分にとっては誰かと一緒に観始めてしまったツマラナイTV番組と大して変わらない。TVの電源はリモコンで簡単に落とせるけれども、何となく観てしまう。いきなり電源を落とすには一緒に観ている誰かに理由を言う必要もあるだろう。結果として惰性で観続ける。



ここで言いたいのはジョギングもTVも惰性で続ける様な下らないものだ、ということではない。惰性のチカラって凄いよねってことだ。


惰性、物理的に言えば、慣性である。ここで慣性の法則とかの話を始めてしまうと、自分の知識の底の浅さを露呈してしまうので止めておくが、電車が急停車する時に進行方向に身体が引っ張られる力が慣性力だ。


物体だけでなく、人の心も何か外力が働かなければ止まらないと思っている。ジョギングに際しての外力は筋肉痛や天候、他のやりたいことなどなど、たくさんある。後はどれだけジョギングを始める際の初速を速く出来るか、ということとジョギングを行うのと同一方向にかかる力をかけられるか、ということにかかっていると思う。


自分の場合、朝の空気や季節の移り変わりを感じることや誰かにジョギングを止めたことを知られたくないこと、などはジョギングを行うのと同一方向にかかる力だ。これが大きければ、始めてしまったジョギングを止めることはない。


世の中には惰性のチカラが溢れている。自分がブログで文章を書くのも惰性だし、図書館で友達同士で行う勉強会なんてのも惰性だろう。人によっては友達付き合いや恋愛、結婚生活ですら惰性なのかも知れない*1


でも、それで良いと思う。プラスに働いていくことならば、惰性でいい。困ったのは惰性がマイナスに働いてしまった場合だ。ギャンブルやタバコ、アルコールなどはその最たる例だと思う。こんな時の惰性は厄介だ。それだけ、惰性のチカラは大きいということだろう。是非、上手く使っていきたいものだ。


ところで、長いな、長いなと思い*2ながらもここまで書いてきてしまったことですら、惰性のチカラと言えなくもない。

*1:断じて、自分は違うが!!

*2:反力