思考の消化器官

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セミの死 / 純粋な祈りとその成長

夏の終わりが近付いて来ているのを感じ取っているのか、至るところに力尽きたセミが転がっている。


セミとは言え、「死」がそこら中に転がっている。


「死」を遠くへ追いやってしまった現代日本において、よく考えると「死」が身近にある数少ない光景である*1。日常、生活をしていても人はもちろん、犬猫や鳥などの動物や、もしかすると昆虫ですら、その「死」を間近に見ることは多くはない。




さて、街を歩いていると三歳くらいの女の子が母親らしき人物に向かって「なむなむするよ?」と尋ねていた。何のことやらと思い、しばし眺めていると転がっているセミに向かってしゃがみ込み、手をあわせて「なむなむ」みたいに口を動かしていた。そんな子を恥ずかしそうな何とも言えない表情でただ見ている母親。


きっとどこかで覚えたてなのだろう。もしかしたら、最近身近な人や動物の「死」に触れたばかりで覚えたのかも知れない。「死」と触れ合っているのに、何となくほのぼのとすらする光景である。幼い子供は単純に可愛く、そして「死」とは遠い存在なのだ。


しかしフト思ったのは、これから秋にかけて彼女は果たしてどれだけのセミの「死」に触れるだろうか、ということだ。自分が彼女を見てから自宅に着くまでの間、何気なく見ていても5~6のセミの「死」が転がっていた。果たして彼女もそれらを見るのだろうか。


また、それを見たとしたら彼女は何を思うのだろうか。一つ一つ「なむなむ」としてくれる程には単純ではないだろう。かと言って「世にはこんなにもたくさんの死で溢れているのか!」と出家前のゴータマ・シッダールタ*2みたいになってしまったら何だか彼女に不幸な人生が待っていそうで嫌だ。


とはいえ、彼女はきっとすぐに「なむなむ」に飽きてしまうだろう。世の中には美しいもので溢れているし、面白いものもたくさんある。彼女の興味をひくものは限りないに違いない。セミの「死」は夏の終わりの風物詩として受け入れられていくのだろうし、それが良いと思う。



でも、道端に転がるセミに向かって「なむなむ」と手を合わせることが出来る純粋さは、心のどこかに残っていて欲しいな、と願う。彼女が成長した先にある姿に現在の自分を重ね合わせてそう思ってしまう。

*1:それが昆虫のものとはいえ

*2:自分の中では手塚治虫のブッダのイメージ