思考の消化器官

色々な感想文とか。生活のこととか。

はしること

昔から走ることが嫌いだ。


高校のマラソンの授業は大嫌いだったし、走ることにストイックになれる陸上部の連中は眩しくて苦手だった(唯一、400mのオタク野郎とは気があった・・・)。


それは今でも変わっていない。走ることの楽しさとか意味わかんないし、皇居ランナーとかが「走るの気持ちいい!」とか言ってるのを見ると鼻で笑いたくなる。っていうか笑う。ランナーズ・ハイthe Pillowsにのみ許されるのだ。



そんな自分なのだが、ここ半年程、実は頻繁にジョギングをしている(「実は」とか書いていてtwitterには毎日報告しているのだが)。きっかけは明らかに身体が弛んできたから。それまでスタイルなんてモノは全然気にしたことがなかったのだが(短足だ、とか頭がデカイこと、とかは結構気にしている・・・傷付いている)、それはやはり若かったからなのだろう。オッサンのお腹や二の腕の弛みは美しさの対極にあると言っても過言ではない。カッコ良くはない×若い×弛んでいない自分から、カッコ良くもない×オッサン×弛んでいる自分になったとしたら、何ランクダウンしたかわからない。


カッコ良くないのは努力のしようがないから仕方ない、整形は嫌だし。オッサンなのも仕方ない、不老不死薬はまだないし。でも、弛みは努力次第でなんとかなるだろう、という訳だ。


ただここでオッサン考えた。「オッサンに何が出来るだろうか」と。体育全般的に苦手ではなかった(むしろ得意だった)けれども、身体を動かすノリが苦手で精神的に文化系な自分には、一人孤独に行う運動しかないだろうと簡単に思い至り、あんまり考えるのも面倒だったので走ることにした。金かからないし。



冬から春に移り変わる季節に走り始めた自分には、走ることよりも毎朝の空気や風景の移り変わりが楽しくて仕方なかった。いつしか、季節の移り変わりを感じるために走る様になっていたのだが、夏になりあまり楽しい風景がなくなっても走る習慣だけは残った。


今でも走ることが嫌いだ。大嫌いだ、と書いてもよい。


走っていると、フトなんで自分は走っているのだろう、と疑問に思うことも少なくない。しかし、もう少ししたら季節が自分の好きな方に移ろい始める、と思うと何だかその瞬間を見逃したくなくて走っている。


まだまだ暑い日が続いているが、もう8月も終わりである。秋は近い。